9メートル四方の巨大謝罪状 伊賀の実業家の作、25年ぶり公開へ

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ホールいっぱいに広げられた田中善助の謝罪状=三重県伊賀市大谷の前田教育会館で、衛藤達生撮影 拡大
ホールいっぱいに広げられた田中善助の謝罪状=三重県伊賀市大谷の前田教育会館で、衛藤達生撮影

 伊賀地方の近代化に貢献した実業家、田中善助(1858~1946年)が書いた巨大な謝罪状が11日、三重県伊賀市大谷の前田教育会館蕉門ホールで公開される。謝罪状は9メートル四方もあり、公開は1999年以来、25年ぶり。公開に先立って、報道各社に8日、披露された。同館を運営する前田教育会の前田史子事務局長は「公共的な事業に取り組んだ善助の熱い思いを感じてほしい」と話している。

 善助は伊賀市上野相生町で生まれ、上野新町の田中家の養子になった。県内初の水力発電所「巌倉(いわくら)水力発電所」を開業し、伊賀軌道(現・伊賀鉄道)や伊賀窯業を設立。さらに金融や下水道事業も手掛け、旧上野町長や伊賀傘同業組合長も務めた。また、月ケ瀬梅林(奈良市)を維持しようと「月瀬保勝会」を設立。1892年に風景保護請願書を帝国議会に提出したことが知られている。

 謝罪状は山渓寺(同市上野恵美須町)の宇佐玄拙住職にあてたもので、日付は明治32(1899)年5月16日。善助が地域のためにため池を造ろうとした際、誤って同寺所有の山林を荒らした件について、「拙者儀溜池新設ニ付工事 請負人等割石運搬之爲メ貴殿所有 山林中ヱ道路ヲ開き…」などとわびている。筆跡から、毛筆ではなく、わらぼうきを使ったとみられる。住職らは謝罪を受け入れ、謝罪状は善助に返却されたという。

 前田事務局長によると、1999年に善助の事跡を紹介する展示を行った際に、田中家から譲り受けて公開。重さ計約4キロの紙を貼り合わせた謝罪状は公開後、2009~10年に修復し、同会が保管していた。巨大な謝罪状としてギネスに申請したが、「謝罪状」というジャンルがなく、「あいさつ状」としてはさらに大きなものがあり、登録は見送られた。展示は16日までの午前10時~午後3時(13日は休館)。問い合わせは同会館(0595・24・5511)。【衛藤達生】

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