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戦時中に旧満州(現中国東北部)に渡って教師を務め、戦後の一時期を中国共産党政府の職員として生きた日本人女性がいた。時代の波に翻弄(ほんろう)されながらも懸命に生き抜いた日々を、女性は白寿となった今も語り伝える。
「どう生き延びるか、必死だった」。熊本市中央区の青木キミ子さん(99)はしっかりした話しぶりで、中国に留用された80年近く前の出来事を振り返る。
福岡県で生まれ育ち、1942年に旅順の師範学校へ。2年後にソ連国境に近い旧満州東部の国民学校で教師になった。当時は、大陸への入植が盛んに勧められており、憧れが自身を突き動かした。
国民学校では、満州国が掲げた「五族協和」の理念のもと、「中国人と仲良くしましょう」と子供たちに諭し、満州語や農機具の使い方などを教えた。
ところが45年8月9日未明、ソ連の侵攻が始まった。爆音に追い立てられ、教え子とその家族、学校関係者らと着の身着のまま、約400キロ離れた満州国の首都、新京(現吉林省長春市)を目指した。
路上に転がった遺体を同行者がつえでよけた後について無言で歩いた。食料はすぐに底をついた。道に生えていた野草ですら、同じように逃げ惑う人たちに食べ尽くされていて、空き家に入って食材をあさってしのいだこともあった。
8月の終わりごろには、一行にいた2歳の男の子が亡くなった。…
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