「ひょうきん族」から国際報道まで。無双のスキルで“女子アナ”の道を切り開いてきた。長野智子(61)。この4月から、文化放送生ワイド「長野智子アップデート」(月~金曜午後3時半)がスタート。「ミスDJ」以来41年ぶりに帰還したラジオで、ハイブリッドな持ち味を生き生きと開放している。【梅田恵子】

★バラエティー畑

スタートした番組は、「オトナのホンネ」をテーマにした90分。バラエティー畑で培われた明るいトーク力、時事問題に向き合う際のジャーナリストとしての切れ味など、二重三重の魅力で早くもリスナーの信頼を集め出した。「短距離の全力疾走を毎日やっているみたい。毎日が新鮮で楽しい」と笑顔で話す。

「声が優しい」「温かい」というリスナーの声が続々と寄せられ、驚いている。反響の多くが見た目に偏るテレビではあり得ない体験という。「声が高いというのがコンプレックスだったのですが、声の中に人格を感じてくださるのはラジオならでは。それが本当にうれしい」。リスナーと1対1で向き合うような双方向性も大きな魅力だ。「介護保険料のテーマの時に母のみとりの話をしたら、皆さんの経験がワーッと寄せられたり。3分で反響が来るんです。ほとんど会話じゃん、って(笑い)」

文化放送はこの人の古巣だ。80年代の女子大生ブームをけん引した深夜番組「ミスDJリクエストパレード」で、上智大生として月曜パーソナリティーを担当した(82~83年)。川島なお美、斉藤慶子、向井亜紀ら多くの女子大生スターを輩出した番組で、その一角を務めた。

時代の最先端にいたが、「全然なじめなくて、つらいという思い出しかない」と笑う。「オーディションを受けたのは、出演料が破壊的に良かったから。母子家庭で、英語教師を目指しながらたくさんバイトしていたのに、ラジオで週1でしゃべったらこんなにお金もらえるんだ、って」。

高校では生徒会議長をしていたキャラクター。渋谷公会堂で歌うようなアイドル並みの活動は「すべてが無理ゲーでした(笑い)」。放送も苦戦した。「私の『ありがとう』はリスナーに伝わらないとディレクターにも指摘されて。何度練習してもできなくて、心が折れました」。ミスDJとしての活動期間は、半年で終わった。

今回、同局で再び番組を持てたことは、大きな喜びであるとともに、リベンジマッチでもあるのだという。「思いを伝えるという、ミスDJの時にできなかったことを、経験を積んだ今、やってみたい。1周回って、スタート地点っぽくてわくわくしています」。

★ジャーナリズム

1度離れた放送の世界に、フジテレビアナウンサーとして戻ってきた。「ミスDJの時のディレクターと四谷でばったり会ったら、『あの中でいちばんアナウンサーに向いていると思ったから厳しくしたのに』と言われて。驚きましたが、この人が言うなら本当なのかなと思って」。応募が間に合ったフジテレビを受け、採用された。

根っからの報道志望だったが、看板バラエティー「オレたちひょうきん族」の3代目“ひょうきんアナ”に起用されブレークした。「社員だったので、社の期待に応えることの方が大事だったし、『長野を使いたい』と言ってもらえたことがうれしかった」。

報道への扉が開いたのは、90年に結婚退職した後のことだ。漠然とフリーを続けていた数年を振り返り「ニュースをやりたいという気持ちは消えないのに、そのための努力は何もしていない。ごまかしながらやっている自分がどんどん嫌いになった」。そんな時、夫のニューヨーク転勤が決まった。日本に残る選択肢もあったが、「自分を変える最後のチャンス」とレギュラー番組をすべて降板。ニューヨーク大の大学院でメディア環境学を学んだ。

「教授にまず言われたのは、偉い人の本を読んで、疑問点を見つけて批判しろということ。60年代のカナダの学者が書いたものを、90年代の日本人が読んだらどこかおかしいと思うはずだと。疑問点を見つけて、ゼミ生たちを納得させる証拠を集めるのが授業でした。これこそがジャーナリズムだったんです」

00年、鳥越俊太郎氏に誘われテレビ朝日「ザ・スクープ」のキャスターになった。キャスター自身が取材に行くのが番組のコンセプト。翌01年の米中枢同時多発テロ事件では、中東に飛んでパレスチナ自治区から中継を行っている。

テレ朝で20年間報道番組のキャスターを務めたが、20年に「サンデーステーション」を卒業することになった。当時57歳。一般社会に重ねれば、役職定年世代だ。「終わった感がありましたね。視聴率は15%を超えていましたが、Z世代にも訴求できるニュース番組に若返らせたいと、年齢を理由に終わったので」。

★業界の栄枯盛衰

だからこそ今回、文化放送から「オトナのホンネ」にフォーカスした新番組の話が舞い込んだ時はうれしかったという。活字のフィールドで地道に取材活動を続け、一冊の本を作り上げたタイミングでのオファーだった。「心の温度を落とさず、今できる努力をしながら扉の前でうろうろしていると、誰かが見ていてくれたり、何かのタイミングが来たりする。『ひょうきん族』の横沢彪プロデューサーに言われたことを、ずっとやってきてよかった」。

ちなみに、大学院で学んだ「メディア環境学」は、メディアの変遷が人間に与えてきた影響を研究する学問という。放送業界に身を置いて40年。「今を伝えるものがテレビからどんどんネットになって、人間がリーチできる世界も変わってきた。メディアの栄枯盛衰を見られたことは、修士として感慨深いです。いま大学院にいたら、いい論文が書けると思う(笑い)」。

女性アナウンサーの世界も様変わりした。「私たちの年から正社員で、翌年の正月特番で初めて『女子アナ』という言葉が使われた。若い女性アナを局の顔として塊で売るのがテレビ局の戦略だった時代。踊りながら天気予報とか(笑い)、テレビが受け手の想像を超えていた時代の最先端を私がやっちゃって」。“女子アナ”のワードは正統に女性アナとなり、今やフリー転身も一般的な選択肢だ。「テレビの力が落ち、ネットなど活躍する場がたくさんある。自然な流れだと思います」と話す。

バラエティーから報道まで、「経験させていただいたものの幅広さに今、気付かされている」としみじみ。「世代によって私の印象が全然違う(笑い)。両極に振れていたものを、ハイブリッドにひとつにしたいというのが私の願いでした。それが、今回のラジオでくっついたという感じ。長く生きているのも悪いことばかりじゃないなって。人生に感謝しています」。

▼所属事務所「古舘プロジェクト」の古舘伊知郎(69)

長野さんの声はラジオに向いていると思います。厳しめのことをさらっとカジュアルに言うから、聴く人がグサっとこないところがちょうどよいんです。ジャーナルな目線をお持ちの長野さんが、テレ朝の報道番組を卒業後、どの舞台で活躍されるのかと興味を持っていましたので、自分ごとのようにうれしいです。さまざまなメディアが乱立する時代に、ラジオだからこそ、コンプラ尽くしではなくコンプラの「コ」ぐらいで留めて、地道に、二枚腰で、彼女ならではのジャーナルな意見を伝えてくれることを期待しています。

◆長野智子(ながの・ともこ)

1962年(昭37)12月24日、米ニュージャージー州生まれ。上智大外国語学部英語学科在学中に文化放送「ミスDJリクエストパレード」のパーソナリティーを務める。85年フジテレビ入社。86年「オレたちひょうきん族」の3代目ひょうきんアナウンサー。90年商社マンとの結婚を機にフリーに。米ニューヨーク大大学院でメディア環境学修士号取得。国連UNHCR協会理事。血液型O。

◆文化放送「長野智子アップデート」

月~金曜午後3時半から同5時放送。きょう起きたニュースやゲストとのトークなど、最新情報をいち早くアップデート。月曜は鈴木純子アナ、火~金曜は鈴木敏夫アナがパートナーを務めている。