中華航空機事故 当時出動の救急隊「3歳児のぬくもり、今も」

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中華航空機墜落事故の報告書を見返す高木幸彦さん=愛知県北名古屋市で2024年4月8日午後0時2分、酒井志帆撮影
中華航空機墜落事故の報告書を見返す高木幸彦さん=愛知県北名古屋市で2024年4月8日午後0時2分、酒井志帆撮影

 今年1月2日。東京・羽田空港で日本航空(JAL)と海上保安庁の航空機が衝突し、炎上するニュース映像に、胸の鼓動が速くなるのを感じた。頭をよぎったのは30年前のあの日の出来事。「負傷者はいるのだろうか……」【酒井志帆】

 <主な内容>
 ・燃え上がる機体、散らばる遺体
 ・暗闇に響いた男児の泣き声
 ・事故が示した教訓
 ・後輩に託す思い

 乗客乗員264人が犠牲となった中華航空機事故(1994年)から26日で30年となる。現場で救助にあたった愛知県内で消防署長を務める高木幸彦さん(59)は、退職まで残り1年となった今、「消防人生で最大の事故」を振り返り、改めて消防・救急の責務の大きさと向き合っている。

燃え上がる機体、散らばる遺体

 94年4月26日午後8時過ぎ。高木さんは愛知県豊山町の名古屋空港(現・県営名古屋空港)すぐ近くの消防署で、いつも通り勤務についていた。

 「エアバス機が墜落、炎上」。突然、無線が鳴った。内容がすぐにはのみ込めなかった。「本当に飛行機なのか?」。半信半疑のまま、救急車に飛び乗った。

 救急隊の最先着隊として空港に…

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