80年ぶりの「再会」 戦没慰霊碑に見つけた父の名 孫の機転が決め手

  • ブックマーク
  • 保存
  • メール
  • 印刷
村井康祐さん(左)と、藤原頼一さんの写真を持って並ぶ中井宏汰朗さん=中井さん提供
村井康祐さん(左)と、藤原頼一さんの写真を持って並ぶ中井宏汰朗さん=中井さん提供

 太平洋戦争で撃沈された艦艇の慰霊碑に刻まれた父の名前を初めて見つけた。生前の親子の思い出はおぼろげで、肝心の艦艇の名前も記憶が定かではなかった。約80年を経た今、思わぬきっかけで父の戦役の証しを探し当てることができ、感慨を深めている。

 兵庫県西脇市の村井康祐(やすすけ)さん(85)は2023年3月、広島県呉市の高台にある長迫公園(旧海軍墓地)で妻や娘、孫の一家7人で、一つの慰霊碑を探していた。

 旧海軍墓地は軍港として栄えた呉で1890(明治23)年に開設。呉で建造された戦艦「大和」など、艦艇や部隊ごとの合同慰霊碑や個人墓碑など計約250基が建ち並ぶ。

 一家は、ある碑の前で足を止めた。「特務艦間宮戦没者慰霊碑」。銘板には艦長以下総勢440人の戦没者名が刻まれている。

 「藤原頼一(よりかず)……あった!」。一つ一つ名前をたどり、村井さんの父、藤原頼一さんの名前を見つけると、一家は歓声を上げた。

 刻まれた父の名を初めて確認した村井さんは約80年ぶりに再会できたような気がして、涙があふれた。「あなたの子孫はこの世に残していますよ」。静かに語りかけ、銘板に刻まれた名前に指でそっと触れた。

生存者の証言生々しく

 父はボイラー技士として国内のみならず、日本統治下にあった台湾や旧満州(現中国東北部)にもしばしば出張した。太平洋戦争後期、軍に召集され、呉の海軍警備隊に配属された。

 父が乗艦した間宮は1924(大正13)年、戦地の部隊に食料を届ける給糧艦として建造された。全長145メートル、排水量1万5820トンの艦内には肉や魚、野菜を保存できる冷蔵・冷凍設備があり、ようかんやもなか、まんじゅうなどの菓子類も製造できた。戦争末期の44年12月、ベトナム・サイゴン(現ホーチミン)からフィリピン・マニラへ航行中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。

 父戦死の知らせが家族の元に届いたのは、沈没翌月の45年1月。当時5歳と幼かった村井さんは「母が泣いたり、母と近くの神社にお百度参りにでかけたりした記憶がおぼろげながらある」と振り返る。乗艦中に攻撃を受けて亡くなったらしいことは、中学生の頃にようやく理解できるようになった。

 村井さんの母みつゑさん(2007年に95歳で死去)はその最期を知ろうと、間宮に乗って生き残った同郷の帰還兵を捜し当て、様子を聞いていた。母が聞いた証言によると、攻撃を受けた間宮の乗員は…

この記事は有料記事です。

残り1031文字(全文2036文字)

あわせて読みたい

この記事の筆者

すべて見る

アクセスランキング

現在
昨日
SNS

スポニチのアクセスランキング

現在
昨日
1カ月