「在日も日本人も関係ない」 先人の思い胸に阪神復興支えた2世

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「私にとっての古里は『ここ宝塚や』と思いたいんです」。生まれ育ち、基盤整備や震災復興にも寄与してきた街を望みながら金禮坤さんはそう語った=兵庫県宝塚市内で2023年12月10日、高尾具成撮影
「私にとっての古里は『ここ宝塚や』と思いたいんです」。生まれ育ち、基盤整備や震災復興にも寄与してきた街を望みながら金禮坤さんはそう語った=兵庫県宝塚市内で2023年12月10日、高尾具成撮影

 ペンを走らせ、辞書や専門書をまとめていた手は石を握り、時に建設重機を操縦するように変わった。

 1995年1月17日に発生した阪神大震災後に「がれき」と呼ばれた災害廃棄物の処理に明け暮れた採石会社がある。兵庫県宝塚市に生まれ育った在日コリアン2世の金禮坤(キムイェゴン)さん(90)が率いた「海山コンクリート」。当時の災害廃棄物の推定発生量は2000万トンに上った。そのうち道路や鉄道関連は480万トン(300万立方メートル)で東京ドーム2・4杯分といわれる。被災後に撤去されたそのコンクリートがら(コンがら)を砕く作業を引き受けた。

 「地震が在日も日本人も関係なく襲ったように、復旧復興にも共に働き、貢献してきた自負があります」

 裏方仕事だからと多くを語ってこなかった。だが自然災害と在日コリアンは不思議な縁があると胸の内を明かす。「アボジ(父)も(兵庫県を流れる)武庫川の水害対策工事に寄与してきましたからね」

 朝鮮半島が日本の植民地下だった1920年代、金さんの父金末寿(キムマルス)さん(84年、88歳で死去)は日本に渡った。大雨の度に氾濫や決壊を繰り返す武庫川水系の河川改修や護岸工事に糧を得て、同県小浜村(現・宝塚市小浜)に居を構えた。母洪福伊(ホンポギ)さん(70年、71歳で死去)との間に33年、六男の金さんが生まれた。

 戦前から現在の宝塚市一帯の山々は採石産業の拠点だった。戦後、金さんの父は日本人の採石業者の勧めを受け、石材運搬業を経て採石会社を興した。だが69年、父を支えていた3番目の兄、金正弼(キムジョンピル)さんが病気により42歳で急逝する。ちょうど「大阪万博」(70年)会場の敷地整備などへの石材供給に忙しい時期だった。

 金さんは朝鮮語研究者として朝鮮大学校(東京)の教員になって3年目だった。葬儀後、父は「兄貴には随分と世話になったやろ」と会社を継ぐように迫った。「事業は続いており、覚悟するしかなかった」と金さんは唇をかむ。70年1月、東京から妻の尹一仙(ユンイルソン)さん(87)ら家族と宝塚に引っ越し、採石業に臨むことになった。

 別世界だった――。

 金さんは採石に加え、コンクリート分野への進出を考えた。水はけの良い路床材としてコンクリートの再利用が海外で注目され始めていたからだ。高度経済成長期、工事で出たがれきは谷間の埋め立て地などへ投棄され、問題視され始めていた。国は環境保全を目的に同年「廃棄物処理法」を制定し、コンクリートなどの処理・運搬には都道府県や政令指定都市の許可証が必要となった。

 80年代初頭、同社は大阪府、兵庫県、神戸市から許可を得た。決して円滑な手続きではなかった当時の様子を知る同僚の荒井瑛郎(てるお)さん(87)は「先見の明です。コンがらの再利用促進が言われるのはそれから10年以上後でしたからね」と振り返る。不法投棄は横行し、国が抜本的な法改正で対応したのは90年代だった。

 95年に阪神大震災が発生する。宝塚市でも死者119人、全半壊1万2000棟以上の被害が出ていた。震災当日に大手建設会社を介し、すぐに日本道路公団からの作業要請が入った。中国自動車道の被災現場だった。阪神間沿岸部の交通動脈は寸断され、山側からの緊急ルートの確保が被災地支援の鍵を握っていた。

 金さんらは、その日に調査を終え、翌日から不眠不休の作業に入った。橋桁は横ずれし、橋脚は折れかけていた。新たな橋脚で補強し、ずれた橋桁をジャッキで元の位置に戻し、その後に壊れた橋脚を再建するという工法で臨んだ。「1車線をなんとか確保するために、社内の技術者が考え抜いたものでした」と金さんは語る。重量や交通量を規制し、下り線の対面通行で6日後に緊急車両が、10日後には一般車両も走ることを可能にした。

 高架が635メートルも横倒しになった阪神高速3号神戸線(神戸市東灘区)の処理の依頼も入った。現場を見ていた金さんは耳を疑った。…

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