「裏切っているのでは…」 新潟水俣病訴訟 80歳原告団長の葛藤
毎日新聞
2024/4/17 16:00(最終更新 4/18 21:32)
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水俣病被害者救済特別措置法(特措法)に基づく救済を受けられなかった新潟水俣病の未認定患者らが国と原因企業に損害賠償を求めた訴訟の判決が18日、新潟地裁で言い渡される。原告団長の皆川栄一さん(80)=新潟県阿賀町=は半世紀もの間、偏見や差別を恐れ、声を上げられずにいた。長い葛藤を経て裁判を闘い、判決を待つ。
新潟県北東部から日本海へと流れる阿賀野川。ウグイ、フナ、コイ、ナマズ……川魚は流域住民にとって貴重なたんぱく源で、山あいの小さな集落で暮らす皆川さん一家もよく食べたという。
皆川さんが体の異変に気づいたのは、20歳だった1963年ごろ。手足のしびれや耳鳴りといった症状が出た。65年4月、渡し船の船頭で体の不調を訴えていた55歳の父が船から川に転落し、4日後に死亡した。
新潟水俣病は「第2の水俣病」と言われ、熊本県の水俣病公式確認から9年後、65年5月に公式確認された。阿賀野川上流にあった昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)鹿瀬工場の排水に含まれるメチル水銀が原因で、流域住民に健康被害が広がった。
「自分も水俣病なのか」と皆川さんは疑ったが、集落の古老から当時、こう強く念押しされた。「水俣病だとか、(患者認定の)申請だとか絶対に言うな。集落の全員が被害を受けるんだぞ」
伝染病との誤解もあり、患者とその家族は偏見と差別にさらされた。病気を隠す人が続出し、皆川さんもそうだった。父に代わる一家の大黒柱として、妻と母、姉、幼い弟たちを養わなければならない事情もあった。70年代に入り、昭和電工から認定患者らに多額の補償金が支払われるようになると家の新築が増え、大工だった皆川さんの仕事につながった。
葛藤はあった。…
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