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瀬戸内の小島に「奇跡の学校」=鵜塚健(社会部大阪グループ)

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かつて家島朝鮮初級学校があった西島の室ノ内地区。今は採石業者の事務所がいくつかある=兵庫県姫路市で2024年3月17日、鵜塚健撮影
かつて家島朝鮮初級学校があった西島の室ノ内地区。今は採石業者の事務所がいくつかある=兵庫県姫路市で2024年3月17日、鵜塚健撮影

 まだ冷たい風が肌を刺す3月中旬、姫路港(兵庫県姫路市)から瀬戸内の小島を目指した。約半世紀前まであった「奇跡の学校」を訪ねるためだ。小さな船を乗り継いで約40分。大小40ほどの島で構成される家島諸島の一つ、西島に着いた。

 島には採石業者の作業員数十人が本土と行き来するが、現在は長期で暮らす住民はほぼいない。船着き場から海沿いに東へ200メートルほど歩くと、朽ちかけた木造平屋の建物があった。断りを入れて中に入ると、床の一部は抜け落ち、教壇や表面がはがれた黒板が残っていた。

 前身を含め1947年から69年まで存在した「家島朝鮮初級学校」。戦後、日本に残った朝鮮人たちは、民族の言葉を取り戻すために各地に国語(朝鮮語)講習所を作った。西島にも講習所ができ、やがて初級学校に発展した。ここでは、日本人の児童も一緒に学んでいたとされ、全国で唯一とみられる。

 どんな歴史があったのか。「朝鮮学校の戦後史 1945-1972」(金徳龍著、社会評論社)などによると、島には20年代以降、採石業を営む日本人、朝鮮人が移り住み、最盛期は約100世帯が暮らしていたという。48年時点で、初級学校(当時の名称は、家島朝鮮小学校)に通う27人の児童のうち5人が日本人だった。近くの島には公立小学校があったが、通学のための船代を払えない世帯の要望で、日本人の子どもたちが朝鮮学校に通うようになった。必要に応じて、朝鮮語と日本語を交えて教えていたようだ。

 連合国軍総司令部(GHQ)の意向を受けた日本政府は48年と49年の2度にわたり、「朝鮮学校閉鎖令」を出し、各地の朝鮮学校が閉鎖に追い込まれた。しかし、西島では学校が残った。島を管轄する当時の家島町長が朝鮮学校側と話し、「問い合わせがあれば閉鎖したと報告し、学校はそのまま存続させる」と決めた。

 島ぐるみで学校を支え、日本人を含む採石業者が切り出す石材1トンあたり5円を集め、運営資金にあてた。59年には新校舎を建て、島で初めての電灯がともったという。

 卒業生に会うことができた。神戸市に住む…

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