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標準語行進曲=喜屋武真之介(写真部兼那覇支局)

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沖縄で地上戦が始まったころ、宮良高夫氏が毎日新聞に掲載した「激戦の沖縄を思ふ」と題した記事=2024年3月23日、喜屋武真之介撮影
沖縄で地上戦が始まったころ、宮良高夫氏が毎日新聞に掲載した「激戦の沖縄を思ふ」と題した記事=2024年3月23日、喜屋武真之介撮影

♪南の島に 時代の潮

 古い習慣 さらりと捨てて

 君も私もこの町も

 聞いて愉しい 標準語♪

 1939年に沖縄県・石垣島で発表された、「石垣校標準語行進曲」の歌詞の一部だ。石垣市史によると、同年7月には石垣尋常小学校の2年生以上の児童と全教員が、学区内を歌いながら行進した。戦前の沖縄の行きすぎた標準語励行運動を象徴するようなこの歌を作詞したのは、石垣島出身の宮良高夫氏。なんと毎日新聞のOBだという。

 高夫氏について語る前に、標準語を巡る当時の沖縄の状況を振り返りたい。1879年、それまで独立していた琉球王国は「琉球処分」によって沖縄県として日本に組み込まれた。しかし、当時の「琉球語」と日本語は通訳が必要なほど異なっており、皇民化と軍国化を進めていた日本政府にとって、沖縄県民を日本に同化させるには標準語教育が喫緊の課題だった。

 一方で沖縄の人たちも、出稼ぎに行った本土や海外の移民先で差別を経験し、日本との対等な関係を目指して標準語の習得を望む人が増えていく。さらに石垣島などの離島は琉球王国時代の中心地だった首里(現・那覇市)との間にも大きな格差と言葉の違いがあり、日本本土だけでなく沖縄本島と対等になる手段として、より積極的に標準語を受け入れていった。

 沖縄の標準語教育では「方言札」が有名だ。…

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