裸の父おぶい「俺はもう住まない」 集団移転を決意した集落

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中越地震後、十二平集落にあった鈴木俊郎さん宅の跡地には「じろべえ」と刻んだ屋号看板が残る=新潟県小千谷市で2024年1月18日午後1時52分、内田帆ノ佳撮影
中越地震後、十二平集落にあった鈴木俊郎さん宅の跡地には「じろべえ」と刻んだ屋号看板が残る=新潟県小千谷市で2024年1月18日午後1時52分、内田帆ノ佳撮影

 新潟県小千谷市の山間部にあり、11世帯41人が暮らしていた「十二平地区」。全戸がニシキゴイの養鯉(ようり)業や農業で生計を立てる小さな集落だ。2004年の中越地震で震度6強を観測し、震災の2年5カ月後、約10キロ離れた土地へ全戸移転した。この秋、中越地震から20年を迎える。当時、集落の意見をまとめ移転を指揮した同地区の鈴木俊郎さん(84)は、「災害危険区域」に指定され住めなくなった古里に今も毎日通う。【内田帆ノ佳】

 2024年秋、中越地震から20年を迎えます。被災した新潟県小千谷市の十二平地区は、11世帯41人が全戸移転しました。住民のリーダーや市職員が当時を振り返り、能登半島地震の被災者への思いも語ります。
 再生の希望を壊すのか 集団移転、戸惑う被災者と市職員
 リーダーの存在、行政の柔軟さ… 住民の集団移転、実現の条件

 04年10月23日午後5時56分、俊郎さんが揺れを感じたのは、越冬用のビニールハウスのいけすに売れ残ったニシキゴイを放ち立ち上がった瞬間だった。いけすの水を全身にかぶり、ニシキゴイは床に散乱。俊郎さんは越冬ハウスごと崖下に落ちたが、奇跡的にケガはなかった。玄関にいた妻マサイさん(82)、入浴中の俊郎さんの父・仲蔵さん(11年に99歳で死去)も無事だった。

 自宅は倒壊の危険があると判断し、俊郎さんたちは裏山の頂上を目指した。俊郎さんが裸の仲蔵さんをおぶい、土砂崩れにより山の斜面に露出した杉の根につかまり急斜面を登った。俊郎さんは振り返らずこう言った。「俺はもう住まない。一生住まないよ」。生まれたときから住んでいた故郷を離れる決意を固めた。

 地震翌日、全住民がヘリコプターで約10キロ離れた小千谷市総合体育館に避難。約1カ月半後、11戸中9戸が仮設住宅に入居した。

 避難後、十二平集落に一時帰宅する機会があった。集落内の道路は至る所で寸断。集落を流れる芋川の上流は土砂でせき止められた。変わり果てた姿を見て、ここに戻る未来を描ける人は少なかった。

 その頃、被災自治体を対象とした県主催の集団移転に関する説明会が開かれ、俊郎さんは小千谷市役所を連日訪れるなどして、情報…

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